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黒田裕樹「明治憲法とは」 5/15 [正しい歴史認識]

5/15 「明治憲法とは」 ~'10.01.23 黒田裕樹の歴史講座
http://www.youtube.com/watch?v=wy19YkXFWUg&list=PLF5A3AF647E00E535

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明治政府は、その成立の段階から将来の憲法制定のための布石を打っていた。

ホンマかいなぁ!?

思ったことでしょう。
ホンマかいなぁがホンマであることを今から説明したいと思います。

大政奉還の翌年となる明治元年。1868年ですね。
明治天皇、時の天皇陛下ですね。
明治天皇によって、「五箇条の御誓文」 が発布されました。
「五箇条の御誓文」 の中に、このような条文があることをご存じでしょうか?
第一条です。

広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

第一条というのは、五箇条の御誓文の中で一番大事だよということです。
特にこれを持ってきた。
それが何かというと、第一条の正確な意味をご存じですか?

政治を為すには広く会議を行い公(おおやけ)の議論によって決めるべきである。

そういう意味なんですよ。
作られたばかりの新政府は強権的な政治を行うのではなくて、議会政治によって何事も決めていくんだよと、決意なんですよね。
しかもこれは御誓文。明治天皇が神様の前でお読みになられて、誓う。
という形式だった。ご自身が神に誓って守りますと強く宣言した。
つまり、明治政府は当初から議会政治を前提にした政策を目指していた。
という大きな証拠です。これは。

天皇自身が決めていること。新政府は逆らえない。
天皇を中心とした政治を目指そうとした新政府が天皇の誓いを簡単に破ることはありえません。
また、同年に政体書という文が出されて、五箇条の御誓文を国家の基本方針として改めて規定しています。
それだけではありません。
この政体書によって、近代憲法の基本精神でもある三権分立、
三権分立は政体書で既に書かれているんですよ。

1868年、明治元年の段階で既に三権分立が大事だということを明治政府は把握している。
そんな新政府が周囲に押し付けられたからと、憲法制定を決めたと思いますか?

以上が明治新政府の内からの判断です。
内からの判断だけではありません。外からの影響もありました。
何かというと、諸外国に後れをとっていた我が国は、何をしたかご存じですか?
岩倉具視を団長とする使節団が欧米諸国を回ったという話ご存じですか?
岩倉具視が使節団を送ったとあっさり聞いてませんか?
あっさりと片付けてませんか?

従来、いくら国力の差があるからといって、
国家が自ら負けを認めて、潔く諸外国に学ぼうという国がありますか?

我が国くらいですよ。こんなことを考えるのは。
逆にいえば、それくらい我が国は追い詰められていたということもあるんですよね。
いずれにしろ、この使節団を作って諸外国を回ったことによって、
明治政府は諸外国との力の差が非常に大きなものであることを痛感するとともに、
不平等条約を解消しようと思えば、我が国が近代国家として諸外国と肩を並べないといけない。
諸外国と肩を並べようと思ったら何が必要なのか。
諸外国と同じように、国の基本的法律である憲法を作らないとダメなんだと。
使節団を送ったことで思い知らされたわけです。

けれど、憲法の制定が必要だからと、すぐに取りかかれないのが新政府の悩みだった。
それは、不平士族の反乱。不平士族の反乱は、まさに使節団が戻って来た頃に激化している。
いくら理想が高くても内乱を抱えている政府が憲法制定や議会開設に本格的に力を入れられるはずがないんですよ。それで、その頃の政府は不平士族の反乱の対策など、講ずべき問題が山のように積まれていて、憲法制定や議会開設に着手するどころではなかった。
この頃の明治政府の正直な思いなんです。

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コメント 4

元気

「議会開設に着手するどころではなかった」

憲法はともかくとして議会はあったと考えていました。
西郷が韓国に使節としていくことは(岩倉使節団出発前に、岩倉不在の折りには重要なことは決定出来ないという申し合わせがあったにしろ)閣議決定されたことのはず。(板垣は出兵を主張するも、西郷自身が穏やかに使節となって諭すことに決まった)
岩倉が帰国の後、岩倉が太政大臣代行となり、断固として先の議決を否定したため、西郷は即日(10月22日)。板垣、福島、後藤、江藤は翌日、参議を辞職したのではなかったか。
(議会開設はされていた)
で、(公議を軽ん自他結果が)佐賀の乱、西南戦争による西郷の自決に到ったのではないか。
西郷が去ったのは明治6年の10月22日。
7年4月には台湾征討。清国が講義すると大久保自ら出向いて談判、賞金を受け取って撤兵。8年5月、千島と樺太の交換。9月に江華島事件が起こると黒田清隆と井上馨を派遣し韓国と談判しています。
内治に専念して外国との厄介な交渉を将来に伸ばすというわけではなかった。
(平泉澄、「物語日本史(下)」より)

なんとも腑に落ちません。
(藩籍奉還、廃藩置県による)不平士族の反乱というより、新政府内の勢力争いに起因した戦争だったのでは?


by 元気 (2013-11-06 23:23) 

元気

征韓論当時は閣議は確かにありましたが、それは藩閥政治の延長線上にあり、民主政治とは言えない面があったため、国民が選んだ議員による議会開設どころではなかったという意味で表現しました。

また、不平士族の反乱以外にも議会政治を行えるだけの国民の意識が高まっていなかったことなどの理由がありましたが、話が長くなるので省略しています。「反乱など」と表現してるのはそのためです。

とのことです。
ほんと、無知なんで勉強しなくっちゃなぁと思います。

さらには、せっせと文字お越ししましたが…
先生のブログで動画と共に記事がありました。

ということで、6/15以降は、そちらをご覧下さい。

http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-category-21.html
by 元気 (2013-11-07 00:30) 

元気

『明治初年に於ける議会政治』
http://wwwelib.komazawa-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/XC00023766/Body/KJ00000150517.html

国民が選んだ議員による議会政治。でなければ、「議会開設」 とはいえない?

そんなことはないようです。
五箇条の御誓文によって喚起された公議は成っていた。
藩閥政治の延長であっても公議であり、公議の上での決定だった。
だからこそ、西郷たちは下野したのでは?
という疑問は消えません。
(不平士族の反乱は、版籍奉還、廃藩置県、四平平等に起因しているというより、新政府内での内紛と、公議を重くみなかったことが原因では?)

よって、やはり、「憲法制定や議会開設に着手するどころではなかった」
ということには納得しかねるものがあります。
成文憲法としては着手せずとも、(外国向けのアピールより大事な、イギリス同様の)習慣法はあったと考えられますし、議会政治も行われていたことが分かるからです。

明治憲法を起草するにあたっての伊藤博文の腐心と使命感にはただならぬものを感じますし、もっと、明治憲法は詳しく(深く)講義で語って欲しかったです。

第二弾を期待します。

by 元気 (2013-11-07 14:37) 

元気

(訂正)
藩籍奉還(誤)→版籍奉還(正)
by 元気 (2013-11-07 16:08) 

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